おかけんたの「えぇ~アート」#28

井上よう子展 静かな場所へー沈黙の青

Gallery Shimada

♪えぇ〜 青色が印象的な 井上よう子 さんの作品。

画像①
《ずっと海を、青を、見ていた
まなざしと感覚の記憶》
133✕700cm(100号✕2+60号✕3)
※作品 100号

心に染み渡る、『青』。幼い頃は、さぞかし 物静かな女の子だったんでしょうね。

井上「父が帰宅したら、よく言われました」

そうでしょう、そうでしょう。慎み深かい子やねぇ、って?

井上「頭にグルグル包帯巻いてるか、手にケガしてるか。あんたはほんま、生傷が絶えんなぁーって」

えぇー、マジっすか!
今の井上さんの雰囲気と作品からは、想像もつかない 幼少期 。
私も子供の頃は膝っ小僧を擦りむいたり、ブロックの角で打って 頭から血を流して 帰宅し、母親をビックリさせたり。同じく生傷の絶えん子でした。

井上よう子 さんは、母方の祖母の実家がある 福岡市 で産声をあげました。

井上「丸っこかった ので、メロンパン みたいとか、西郷さんみたいとか 言われてました」

西郷さん!
九州らしい、たとえですね。

3歳になると、大阪へとお引越し。その後、教会での クリスマスイブの 聖誕劇 で マリア様 の役に大抜擢。好きなTV番組は『忍者部隊月光』(1964年1月 ― 1966年10月)で、木材置き場で飛び跳ね 生傷が絶えず 、まわりから「わんぱく、わんぱく」と言われてたそうです。故に、マリア様の役 を演じたり ヒーローもの が好き!という観点から とても正義感 が強く、いじめっ子の兄弟 のところに 仕返し に行くこともしばしば。そんな アクティブな日常 プラス、 ノートに描いていた絵 を 褒められる ようになり、親に勧められ お絵かき教室 に行くことになったのですが ・・・

井上「これ描きなさい!と言われるのが、嫌でした」

えぇーい、 お絵かき教室 には通わず、外で遊んじゃえぇー 。
ちなみにこの頃好きだったTV番組は、『レインボー戦隊ロビン』(1966年4月 ― 1967年3月)。どうも、部隊や戦隊もの がお好きなようで、ままごと には興味なし!
ただ お医者さんごっこ は、やってたそうです。

井上「お医者さんか、絵描きさんになりたいと思ってました」

活発 な よう子ちゃん に対し、姉は 内向的 で 人見知り 。これが 井上さん の人生 に大きく関わっていくことになります。

小学校に上がると、 神戸 にお引越し。通学時は30分かけて遠回り をし、海が見える堤防から 大海原を眺める のが好きだったそうです。

井上「この時ふと、絵を習いに行こうかな?と思ったんです」

碧海 を望むことで、再び筆を持つことを後押ししてくれた『青』。ネガティブな事も、忘れさせてくれます。

井上「この頃も ケガが日常 でした」

相変わらず 青アザ、作ってたんですね。
家庭科の授業で、裁縫道具箱の色 が 男子は水色、女子はピンク と決まっていたそうなんですが・・・
もう、この先は書かなくても大丈夫ですよね?

はい、そこの 青いシャツ を着ているあなた!
答えをどうぞ。

【青いシャツを着ている人の答え】
女子は ピンクの裁縫道具箱 を使わなければいけないのに、1人だけ 水色 を使っていた

惜しいぃー

正解は

女子は ピンクの裁縫道具箱 を使わなければいけないのに、1人だけ 水色 を使い、まわりから「大人の言うことを聞かない 頑固者 」と言われていた

と、「大人の言うことを聞かない頑固者」まで答える と 正解!

「わかるかいぃー」のツッコミ、ありがとぉー。

5年生、6年生になると、絵 や 版画 のコンクール で 賞を受賞 。朝礼で 校長先生から賞状 を貰うことが増え、児童からは「また呼ばれてる」と 話題に。

中学校に入ると 滋賀県彦根市 に引っ越し、中学校に入学。 部活は バスケット部 に入り、習い事は 姉と一緒 に油絵を教わりに行きます。2年生になると バスケット部のキャプテン を務めるようになり、マラソン大会でも3位 という好成績。さぁ、これから!という 中2の2学期 に 大阪府池田市 に引っ越しをし、3年生になると 大阪府摂津市 にお引越し。それは 不安を抱えていた 姉 を気遣い、家族が決断された 苦渋の選択 。そして 中3の秋、文学少女であった17歳の 最愛の姉 が 自ら命を絶ち 、他界。青天の霹靂 でした。

「哀しみに暮れる両親を、私が何とかしなければ・・・」

高校に進学すると バスケット部からの勧誘 があり、入部。クラスの担任が、井上直久 氏 という 美術の先生。

井上「この先生との出会いがあったから、芸大に行きたいと思ったと言っても過言ではありません」

授業内容は、絵の具や課題を選ぶことができ、絵の具は ハイブラー絵の具 を使用。先生からは「おハセ(旧姓・長谷川洋子)は、課題を理解してる。分かってる」とお褒めの言葉もいただいたそう。そんな 先生の個展にも足を運ぶ ようになり、「シュール、面白い!」と益々 美術の魅力 に惹き込まれていき、絵を通して 先生と一緒に歩んでいる 感じ がして、充実していたそうです。
2年生になると、生徒がモデル になり 先生が描く といこともあったそうですが、この時 井上さん が思っていたことは

「私は選ばれへんなぁ」

先生の絵と同じく、めっちゃ シュール なお答え。
そんなデリケートなお年頃ですから、恋愛相談 なんかもされてたそうで、先生はこんなことを言ってくれたそうです。

「失恋 というのは、自分が諦めた時が 失恋 。想い続けていたら、失恋 ではない」

この言葉が、井上さん の 心に突き刺さった。

井上「恋に限らず、諦めた時が終わり!」

バスケット部の厳しい練習にも耐え、理系のコースを選択。子供の頃の夢だった お医者さんになる べく、大学の医学部を目指し 猛勉強。
高3、バスケット部を引退。文化祭 もギリギリまで頑張るんだ!と アクセル全開。そんな最中 出会ってしまったのが、抑えた色調 で 静謐な作品 を描いていた、Andrew Wyeth(アンドリュー・ワイエス)の画集 。

「やっぱり、絵を描きたい!」

すると、もう1人の自分がこう囁いてきた。

「諦めた時が終わり」

幼い頃、思い描いていた もう1つの夢が、絵描きさん になること。

井上「このままでは美術がなくなる。絵が描きたい、芸大に行きたい!そして 美術の教師 になり、親の面倒をみたい!!」

そう決意したのが、高3の夏。まだ間に合う?

井上先生「デッサン、持ってこぉーい!」

浪人覚悟で挑んだ、芸大受験。
結果は

合格

うわぁー、なんか 青春 してはるわぁー。

井上「絵は、姉の方が上手かったんです。もし彼女が芸大行ってたら、私は行かなかったかも」

芸大進学 を グッと後押し してくれた一番の貢献者。それは、お姉さん だったのかもしれません。

教育大に行き、臨床心理士 を目指す。それも考えていたそうです。まさに、千変万化 な高校時代。

合格した 京都市立芸術大学 の 美術学部では、1年生では基礎を勉強。部活は、バスケット部。2年生になると、画家 三尾公三 先生から絵の教えを請いながら、バスケット部の部長も務めます。
三尾公三 氏といえば、私の世代は 大阪 なんばの地下街 のアートワークや、雑誌『FOCUS』の 表紙デザイン を担当されていた、人気作家。エアブラシを用い、青 を 基調 にされた 背景 と 写実的な 女性像で、観るものを シュールな世界 へと誘う アーティスト。ここで方向性は、決まったようなもの。自画像を描く時も 背景が青っぽく なっていき、いつの間にか『青のハセ』と呼ばれるように。「教師になって、親2人をみていこう」、その強い思いにより 教育採用試験 にも受かり、4年生の時に 初個展 、そして『独立展』に 初入選 。

画像②
独立展 初入選作品
《残影1》
油彩 80号

大学卒業後は、大学院 へ。 天に召された 姉 の 心 を思い描いた 、オマージュ作品 を制作。

画像③
《逝ってしまってわからない》
油彩 50号

学費は親に負担をかけないよう、ミニスカート で ファストフード店 でアルバイト。親を思う健気な姿には、本当に頭が下がります。
大学院修了後は、私学の女子校で念願の 美術教師 に就任。1年目は副担任を任され、2年目は「美術教師ではスグにはなれない」と言われていた 担任 に抜擢。

素晴らしいぃー!

がしかぁーし、

熱があっても休まず教壇に立ち、夜は さぁー絵を描こう!と思っても、生徒から相談の電話がかかってきたりして、制作する時間が取れない。

絵か?
教師か?

結局、担任と美術の両立は無理!と判断し、教員を辞職。

井上「未だに、その時の生徒が個展を観に来てくれます」

それは、ありがたやぁー。
絵は続けるにしても、仕事はしないといけない。募集があった デザイン専門学校 の 講師や 非常勤講師 などのご縁があり、2校を掛け持ち。
1984年、『茨木市展』で市長賞を受賞。
そして1985年、目出度く 結婚。名前を、長谷川洋子 から 井上よう子 に改名。

井上「ユーミンが好きだったので、名前を変えました」

荒井由実 ➡️ 松任谷由実 と同じく、長谷川洋子 ➡️ 井上よう子 ということですね。
結婚、ご両親もお喜びになったことでしょう。さぁ、これからしっかりと親孝行を!と思っていた矢先、母が 永眠 。
・・・悲し過ぎます。

父親の面倒をみることになった、井上さん。2度と絵が描けない程 過酷な運命に翻弄され、青息吐息 で 神戸の街 を彷徨っていた時、ふと見上げると 1軒のギャラリー が。

井上「その時、絵を見せてください、という画廊主の言葉に希望をもらいました」

それから、画廊主から「お客様に見せたら評判がいいので、2年後に個展をやりませんか」と嬉しいお話をいただき、1991年に個展を開催。
この人物こそ、その当時 アート好きの方なら知らない人はいない と言われていた、海文堂ギャラリー の 島田 誠 さん。
私も何度か 海文堂ギャラリー に行かせていただいてたのですが、鴨居玲 作品 や 木下晋 作品 が観れる貴重なギャラリーで、スペースが 海文堂書店 内に併設されていたので本も見ることができ、ついつい長居をしてしまうギャラリー。
そんな 海文堂ギャラリー で 井上さん は、隔年で個展を実施。その後、21年間 神戸元町の 海文堂ギャラリー で活動されていた 島田さん は、新たな拠点として 2000年秋に 北野ハンター坂 に ギャラリー島田 をオープン。
井上さん は、2002年に ギャラリー島田 での初の個展を行いました。

画像④
Yoko Inoue
Exhibition
The lost time in Blue
Gallery Shimada
DM

DMの作品が、「天国に近い場所 〜 and he hasgone」。青天白日 な心境で、新たな一歩 を踏み出した 井上さん。2004年には『第6回前田寛治大賞展』で 佳作賞 を受賞、そして2008年は 兵庫県芸術文化協会より 亀岡文子記念 ― 赤艸社賞 を受賞。もう、その勢いは止まりません。

2004年
井上よう子 The lost time in Blue 展 (デンマーク 日本大使館)

2005年
アジア女性美術招待展 (韓国 ソウル市立美術館)

2007年
YUKO TAKADA KELLER & 井上よう子展 〜デンマークからの風 (神戸・ギャラリー島田)

2008年
井上よう子個展 (阪急うめだ本店)

JAPANSKE VINDE Ⅱ (デンマーク ギャラリーSPOT)

亀岡文子記念 ― 赤艸社賞受賞記念個展 (神戸・ギャラリー島田30周年)

2010年
井上よう子展 〜transient time (神戸・ギャラリー島田)

Ge展 (京都・京都市立美術館)

2011年
「星に願いを・・」展 YUKO TAKADA KELLER & 井上よう子 (京都モーネンスコンビス)

井上よう子展 ―Sincerely yours― (東京・ギャラリー枝香庵)

2012年
井上よう子展 ―ともにある孤独・希望の光 (画集出版記念展 神戸・ギャラリー島田)

井上よう子展 (京都・ギャラリーなかむら)

2013年
井上よう子自選展 (神戸・ギャラリー島田)

井上よう子展 (東京・ギャラリー枝香庵)

2014年
井上よう子 〜 切なく暖かい青の情景 〜 展 (三木市立堀光美術館)

2014年、三木市立堀光美術館 の会期中での出来事。

画像⑤
左《生き方を教えてくれ》
183✕92cm
アクリル
右《ゆくべき道をさがして》
130号
アクリル

右の《ゆくべき道をさがして》の前で、作品を見詰めながら立ち尽くす男性。お話をうかがうと、半年前に最愛の妻を亡くされたという。やがて男性は表情が和らぎ、

「やり場のない気持ちが、青の大きな絵の前でやっと流れました」

ゆくべき道をさがして・・・
妻が天国へ旅立った今、自分も新たな一歩を踏み出さなければ!男性に、そう思わせた瞬間でした。

井上「2012年に人間不信に陥り、毎日吐き続けズタボロになった心を立て直すべく、描いた絵でした」

作品の 蒼穹 に込められた メッセージ。苦しみや哀しみを包み込み、そして解き放つ 青。今回の 2025年12月、ギャラリー島田 での個展

井上よう子展 静かな場所へー沈黙の青

Gallery Shimada

は、その集大成ともいうべき 展覧会。

画像⑥
《ずっと海を、青を、見ていた
まなざしと感覚の記憶》
133✕700cm(100号✕2+60号✕3)
※作品 右から60号✕2、100号
画像⑦
《ずっと海を、青を、見ていた
まなざしと感覚の記憶》
133✕700cm(100号✕2+60号✕3)
※作品 右から 60号、100号

5枚1組の大作。自宅からの風景を描きながら、足跡や歩みを振り返り、そして見詰め直す。横一列になると 水平線がひとつ になり、遠くの光が 名前のない時間 へと溶け込んでいきます。

画像⑧
《出会った場所へ》
45✕12cm
Acrylic

秋田の ギャラリー杉 で展示した際、ギャラリーとホテルの通い道で見掛けた 教会。舞い上がる 神聖な光の粒 が印象的な作品。

画像⑨

《In the Blue〜Rose Gerbera》
90✕25cm
Acrylic

《In the Blue〜White Tulip》
91✕20cm
Acrylic

井上「普段の絵の具は ウルトラマリンブルー を使ってるんですが、水中を描く時は フタロシアニンブルー や プライマリーシアン を使うと、緑がかって奥行きが出るんです」

確かに 深海 のようなイメージになりますよね。

画像⑩
《優しい光に誘われて》
F4
Acrylic

四国の友人宅 が、モチーフ。下部に描かれている ガラス玉 ようなものは、記憶。儚く 壊れやすい、透明感のあるものを表現されています。

画像⑪
展示風景

最後にメッセージをいただきました。

井上「青 は 喪失と再生の色。吸い込まれるような青の体験に、浸ってください」

作品制作の他、神戸新聞 の 文芸ページの連載 や、NHK文化センター神戸教室『大好きな絵を描こう』の講師を20年も務め、多忙な日々を過ごされている 井上さん。水色の 心の裁縫道具箱 で、家族の綻び を 縫い繕い、 綻ぶ涙 で 絵の具を溶かし、青 と共に歩んできた日々。冷静になりたい、現状から解放されたい という 青 に惹かれる心理 を飛び越え、清らか で 正義感が強い 自分を手に入れた今、この先の 青写真 は 限りなく明るい! ですよね。

というわけで、ここで問題!

【問題】
コラムな中で、『青』は何回書かれていたでしょうか?

・・・って、もうえぇーわぁ〜♬

画像⑫
井上よう子さんと展示作品

井上よう子展 静かな場所へー沈黙の青

Gallery Shimada

2025/12/13(土) ― 12/23(火)
12:00 ― 18:00
※最終日は16:00まで
12/18(水)休廊

神戸市中央区山本通2―4―24リランズゲート1F
TEL&FAX 
078―262―8058 

info@gallery―shimada.com

https://gallery―shimada.com

井上よう子
site
https://www.yoko―scene.com/

Instagram
@yokoohase


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おかけんた
1961年3月28日生まれ。1983年に漫才コンビ「おかけんた・ゆうた」を結成。1986年「第17回NHK上方漫才コンテスト」優秀賞、1997年「第32回上方漫才大賞」奨励賞、1999年「第34回上方漫才大賞」大賞など。
並行して、アート分野で活動を開始。1994年〜1995年「東京国際AU展」作品展示(東京都美術館 )。1995年株式会社スプーン公募展でグランプリを受賞。1996~1998年「OCHA(大阪コンポラリーヒューマンアート)」をプロデュース。2014年からは「京都国際映画祭~映画もアートもその他もぜんぶ~」 でアートプランナーを務めた。「ART FAIR TOKYO」アートトーク (2007年~2010年)、「ART OSAKA」イベントMC (2008年~2012年)、「草間彌生 永遠の永遠の永遠」 国立国際美術館 ギャラリートーク (2012年)、ギャラリー A―LABのアドバイザー(2015年~)、京都精華大学客員教授(2018~2020年)、「茨木映像芸術祭」審査員(2021年)、「Any kobe2022」トークイベント (2022年)などを歴任している。