シルクのべっぴん博
Silk calendar 20th anniversary
LAUGH & PEACE ART GALLERY
『心斎橋筋2丁目劇場』(1986 – 1999)
芸人がアイドルの如く追っかけられ、ある祝日には 劇場の周りに3000人ものファンが押し寄せ、上空には「なっ、何事?」と ヘルコプター が旋回していたという、伝説の劇場。
その 心斎橋筋2丁目劇場 のオープニングを飾ったのは、ダウンタウン でもなければ 今田耕司 東野幸治 でもない。レオタードに身を纏った、非常階段シルク・ミヤコ と 我々 おかけんたゆうた の ダンス。
あれから39年。昨年の年末深夜番組でも、まるむし商店 の 東村 さんと軽やかなステップでダンスを披露していたのが、“ 美容番長 ” こと シルク。
そんな シルク が、20年間発表し続けた Silk Calendar。その集大成ともいえる展覧会が、LAUGH & PEACE ART GALLERY で3日間だけ開催される 。

展覧会ポスター
シルクは、松屋町の和菓子を生業とされた『粕谷製菓』の、三人姉妹の長女 文子 (あやこ) として誕生。物心ついた頃、クリスマスにミナミのサパークラブへ、町内会長で人当たりのよい父と一緒に和菓子を届けに出掛け、キレイなお姉さま方からお小遣いやぬいぐるみをもらったり、年末にはご近所さんにお餅を配りに行くのに付いて行ったり。和菓子屋の看板娘の役割を果たしていたそう。
粕谷製菓 の名物は 最中 で、主にメーカーさんから受注されたものを生産。祖父と父を含む5人で営み、時には徹夜することも。祖父は 仕事一徹 厳しい方で、「お客さんに売るもんや」と 和菓子 を孫に食べさせてくれない。ある日、どうしても 栗ようかん が食べたくて 妹 と2人で工場に忍び込み、栗ようかん をパクリ。ネズミが来て食べたことにしたが、そこは強者 スーパーおじいちゃん。
祖父「これはネズミちゃうなぁー。誰や食べたんわ!」
粕谷家 では 毎週日曜日は カレーの日 。その日、姉妹揃って カレー抜き だったことは言うまでもない。
シルク「近所の子が『アイスクリーム入れるから最中ちょうだい』って来たらあげてたのに、私らにはくれませんでした」
粕谷製菓 がある 松屋町 や 谷町界隈 は ほとんどが自営業の方で、クラスに一人だけ会社勤めされてる家庭の子がいて、
シルク「えっ、朝の9時から夜の9時までお父さん家におらんの?と、皆に言われてました」
子供の頃の遊びは、シルクのことだからおままごとやお人形さん遊びだと思ったら大間違い。路地から路地 へと 大阪城 まで行く裏道を探し、「この道知らんやろ、案内したるわ」と 大阪城 まで行けた子はヒーロー !
シルク「大阪城の抜け道があり、秀吉さんは部下この辺りに集めてたんだなぁーと」
小学校時代は、このように血気盛んな女の子で、ブロックから飛び降りたりして 半月板損傷 になったことも。
ここまで話を聞いていると、意気軒昂 で探究心旺盛であったことに気が付きます。
あっ、お淑やかな部分も書いとかなあきませんね。
父が姉妹3人、お茶とお花をそれぞれ違うお寺に通わせていたが、それには理由が。
シルク「うち、お菓子作ってますって言ったら、先生方が 粕谷製菓 で和菓子を注文してくれました」
お父さんなかなかの戦略家。それで3姉妹それぞれ違うお寺に習いに行かせてたんですね。このお陰で、家業の和菓子を堂々と口にすることができました。
お母さんは話上手で、「面白い話あってなぁ」と、周りにはいつも人だかり。
シルク「皆、うちの前通って算盤塾行ってて、帰りしな母が 『カレー食べて行き』と言い、近所の子がご飯食べて帰ってました。そういうたら、知らん子もおったなぁ」
知らん子!マジっすか!!
松屋町、谷町。下町ならではの えぇ光景。
中学校に上がると 漫才 (非常階段) の相方 ミヤコ と席が隣になり、クラスメートから 「セツコ セツコ」 と慕われ、成績もクラスでトップ。そんな ミヤコ と仲良くなろうと、その当時手紙を書いて渡すのが流行ってて授業中に渡したが、即返事は貰えなかった。理由は 「授業中は、先生の言うこと聞かないとあかん」。優等生らしい、ミヤコ の発言。その後同じ塾に通い、帰宅しても電話で1時間喋ったりと、超仲良しに。
シルク「私も先生の授業を真剣に聞くようになり、成績も40番目くらいから10番目くらいに上がっていきました」
クラブ活動は、シルクがバスケ、ミヤコが新体操。がしかぁーし、シルク は靱帯損傷、ミヤコ は大会で演技を途中で忘れ棒立ちになり、共に退部。
そんな2人が夢中になり追っかけをしていたのが、『赤とんぼの唄』や『魚屋のオッサンの唄』が大ヒットした、清水国明 さんと 原田伸郎 さんのフォークデュオ あのねのね。その当時の人気は凄まじく、深夜ラジオ 『オールナイトニッポン』(ニッポン放送) 生放送の次の日は、クラスでその話で持ち切りになる程。この頃、ラジオで葉書が読まれる ハガキ職人 になることがステータスで、アヤコちゃん (シルク) と セツコちゃん (ミヤコ) もせっせとネタ作りに励む日々。大ヒット曲『魚屋のオッサンの唄』をアレンジした ネタ で、OA 。
♪魚屋の
オッサンの
住む家は
魚屋 ♫
そのまんまやないかぃー ! と、スタジオ大爆笑 !
そんなネタが功を奏し、天王寺公園野外音楽堂 で あのねのね さんがコンサートをされた時、アヤコちゃん と セツコちゃん は ステージに呼ばれる という快挙を成し遂げ、ファンの間でも人気者に。
高校も一緒で、部活は軽音楽部。えっ、クラブ活動続いたかって?ご想像にお任せします。
この頃ハマりだしたのが、洋楽。ラジオの影響もあり、カーペンターズ(Carpenters) や T・レックス(T・Rex) などを聴き、塾帰りは ディスコ で フィーバー。
高校3年、ミヤコ が 桃井かおり さんに憧れ女優を目指していて、東京の 劇団俳優座 の試験を受けるので付いていくことになったが、一次試験で敢え無く落選。結局2人で、大阪外国語大学 に進学。
ちょうどこの頃、英国で パンク・ロック (punk rock) が人気の出始めで、交換留学の制度を使い 英国の ヘイスティングス(Hastings)にある大学に留学。週末は3時間かけてロンドンへ、 アダム&ジ・アンツ(Adam and the Ants)や スージー・アンド・ザ・バンシーズ (Siouxsie And The Banshees) 、パブリック・イメージ・リミテッド (Public Image Ltd) などの LIVE へ。こうなったら黙っちゃいないのが ミヤコ、夏休みを利用し渡英。2人でイギリス一周旅行計画を立て、駅前で、Gパンにチャックを付けたものを売ったり。着物に襷して、『日本』と書かれた はちまき に 筆差して、
『Write your name japanese kanji character』
あなたの名前漢字で書きます
と、ジェイソン (jason) など 名前を漢字で表現したもの を筆で書いて売って、旅費を稼いでいたそうです。
シルク「ジェイソンだったら 『滋瑛尊』とか紙に書いて貼り付けたら、よぉー売れたんです」
ミヤコ が漢字事典持ってきてたそうです。さすが、秀才。
旅は スコットランド から アイルランド まで行き、ミヤコ が「ネス湖でネッシー撮る」とか「テイムズ川の近くに永住したい」とか、かなりハマったご様子。
ミヤコ が帰国したあと急に寂しくなり、結局1年滞在の筈が10カ月で帰国。
帰国後、教員になろうと教育免許を取得するにあたり、2週間中学校で教育実習も行ったそうです。
シルク「この時の生徒が、べっぴん塾に来たりしてます」
この時 ミヤコ は 再び 劇団俳優座 の試験を受けるが、2次試験でまた夢と散る。
だがチャンスは、意外なところに転がっていた。世はあの空前の 漫才ブーム。
大阪外国語大学 学園祭 では お笑いのコンテスト があり、シルク と ミヤコ は2人でコントを披露。
ミヤコ は思った 「これやったら2人で舞台を一人占めできる!」ミヤコ は 演劇 から お笑い へシフトチェンジ。シルク を誘い、コンテストの審査員だった 放送作家・脚本家 の かわら長介 氏に相談。すると 吉本興業 の 佐敷 さんを紹介していただき、「今度2丁目劇場というのができるから」と、担当の 大﨑 さん (元吉本興業株式会社会長 大﨑洋) に連絡を取ってもらい、大﨑 さんがいる NSC吉本総合芸能学院 へ。
そこにいたのが、ダウンタウン の2人。大﨑さんが「どんなネタやってんの?」と言い、 シルク と ミヤコ は なんと 大﨑さん、ダウンタウン の前で コント をすることに。
コント終了後、大﨑さんから「よしもと入らへんか」という誘いに、2人は喫驚!
シルク は高校教師になることが決まっていたが、塾の先生に変えて夜だけ勤務。
好きだったバンド “ 非常階段 ” を コンビ名にし、非常階段 シルク・ミヤコ としてデビュー。やがて よしもと で漫才をやってることが新聞記事で塾にバレ、先生を退職。高学歴芸人 として 漫才、コント、我々 おかけんたゆうた と共に ダウンタウン主演 の演劇『心斎橋2丁目物語』(1986年) や、MBS 毎日放送 『4時ですよーだ』( 1987- 1989年) に出演。受賞歴も、1986年 第7回ABC漫才落語新人コンクール 最優秀新人賞(漫才部門)、1986年 第16回NHK上方漫才コンテスト 最優秀賞、1987年 第22回上方漫才大賞 新人賞、1988年 第8回花王名人大賞 新人賞 と総ナメ。お茶の間の人気者となった。
漫才の面白さがわかりだしてきた1996年、無情にもその日はやってきた。中学生の頃からずっと一緒だった ミヤコ が肺がんで他界。あまりにもショックで何も手に付かず、もう芸人を辞めようか と思い 大﨑さん に相談したら「暇になったんやから、旅行にでも行ったら」と言われ、渡米。ニューヨーク に5ヶ月程滞在。
シルク「暇やから探索してたら、スーパーには色とりどりの野菜はあるし、いろんなお店はあるし。そんな時ふと看板を見たら 『Face Exercise』(フェイス エクササイズ) って書いてあったんです」
その顔の体操 フェイス エクササイズ 、「顔にも筋肉はあるし、神経もある。緩めて上げましょう」ということで通いだし、2週間くらい経ったら 顔面神経痛 がマシになったそうです。3ヶ月後 『Face Exercise Basic』(フェイス エクササイズ ベーシック) の免状を取り、朝 セントラル・パーク を走り体重を計ってみたら 59kg が 46kg になり、13キロ減という嬉しい成果に。そこから 健康志向 になり、次の年 『ニューヨークシティマラソン』(New York City Marathon)にエントリーし、4時間半で完走。こうなりゃ走り出したら止まらない。ラスベガス、ボストン、ゴールドコースト のマラソンにエントリーするが、持病の膝を痛めてしまい、ウォーキング に変更。「体を鍛えないとあかん」 ということで、戦場に行った兵士が寝ながらできる マットピラティス を体感し、資格を取るため猛勉強し、6年後に取得。
その他にも、アメリカの生化学者 アイダ・ロルフ博士 が開発したボディワーク ロルフィング (Rolfing) の資格も取得。
まだまだ勢いは止まりません。大阪の ラジオ大阪 で 大木こだまひびき の こだまさん が 壁に貼ってある 演歌歌手のポスター を見て、
こだま「お前もこんなん作ったらえぇのに。あっ、カレンダーにしたら、どや」
というわけで、2006年に最初のカレンダーが誕生。

シルク カレンダー
2006年
イタリアのファッションブランド『ミスシックスティ』(MISS SIXTY) の表紙をそのまま真似たそうです。Gパンにジッパーって、ロンドン で縫って売ってた時のパターンで、親和性ありますよね。
シルク「最初、日めくりって言われたけど無理!」
次の年、吉本興業の チュートリアル とロケが一緒の際 「女性のためのイベントしたらどうですか?」とアドバイスをもらい、2007年にうめだ花月で 『べっぴん塾』vol.1を開催。
シルク「最初は10人くらいしか来ていただけなかったんですけど、徐々に増えて100人くらいになりました」

シルク カレンダー
2009年
習い始めて楽しかったので、どうしても撮りたかったのがこのトランペット。
この頃から「残していかないといけない、自分の財産的なもの」としてカレンダーがあると思い始めたそうです。
2010年、慣れ親しんだ『非常階段シルク』から『シルク』に改名。
私も一昨年に相方の ゆうたくん を亡くしてるので、“ 非常階段 ” という屋号をずっと使い続けてきた気持ち、手に取りように分かります。

シルク カレンダー
2011年
「海で撮りたい!」ということで、西表島 で撮影。実はこの時 百日咳 で 肋骨が2本折れていたそうで、体動かす度に激痛が。けどこの自然な感じ、そうは見えませんよね。

シルク カレンダー
2013年
あるショーハウスの関係者に衣装を作ってもらい、バックライトで体が映えるように腹筋100回など、肉体改造。
シルク「カレンダーのためならできる!」
2010年発売された著書 『シルクのべっぴん塾』の売上が20万部を超えベストセラーとなり、2013年から2014年にニュースサイト『ナタリー』の女性記者が『美容番長』と記事で書いたことがキッカケで、そう呼ばれるようになる。

シルク カレンダー
2014年
最初はホテルの ベッドで撮影してたそうですが、メイクさんが「泡で、できませんかね?」というアイデアで洗顔石鹸をガラスドアに付け、撮影。結果、バブリー感のある素晴らしい出来映えに。

シルク カレンダー
2015年
「男性を1人入れてもいいなぁー」ということで、お相手にボブくんという芸人を採用。ボブくん、目のやり場に困ったそうです。このお相手には肉体美を誇る男性が必要で、もう1人の候補が ミルクボーイ の 駒場くんだったそうです。

シルク カレンダー
2017年
水槽の中でカメラマンの注文が、手を付いてはいけない、膝と足首と腰も曲げないといけない、底まで沈まなくてはいけない。ヒレのカーブを保つのがめちゃくちゃハードで、1回潜るのに10秒が限界だったそうです。目も開けてるし、今まで1番大変だった撮影がコレ!

シルク カレンダー
2019年
私も『京都国際映画祭』でご一緒したアーティスト、“ 新聞女 ” さんの、古新聞で制作されたドレス を着用。新聞女 さんのご提案で、新世界のとあるお店で撮影されたそうですが、雰囲気ありますよね。シルク「意外と着心地よかったです」。

シルク カレンダー
2020年
吉本興業 女と男 の ワダちゃん が作った、ブルーに赤い水玉を纏った帽子を被り、撮影。時代を選ばないファッションのような気がします。

シルク カレンダー
2025年
シルク「最初の2006年の時に10年後撮ると決めて、2016年の時も10年後撮ると決めてました。そして2025年、これで終わりだと決めました」
4月以降、プロポーションから企画まで整え、9月に撮影。撮影後は印刷から発送に追われ、休む間もなかったこの20年。
カレンダー20年やりましたからやめますと、この企画案を提案された 大木こだま さんに報告したら、こんなメッセージが。
こだま「よく頑張りましたね。じゃ、私からご褒美です。『美容番長』改め、『美容将軍』と名付ける」
しょ 将軍、美容将軍!
この命名を受け シルク は、よしもとの後輩の レインボー 池田直人 くんに『美容番長』の名を譲り、2025年1月1日から『美容将軍』と改名。これって、格上げ・・・ですよね?
最後に皆さまにメッセージをいただきました。
シルク「20年、病気することもなく無事でやってこれたのは、メイクさん、カメラマンさんにその時その時に助けられ、1人では生きていけないんだなぁとつくづく思います。そういった20年の絆と変遷を感じてほしい」
ミヤコに忠告され先生の話を聞いたら成績が上がり、大﨑さんに言われてニューヨークに行き美容に目覚め、こだまさんにカレンダー作れと言われ20年間作り続けた。そして チュートリアル に 女性のためのイベントしたらどうですか?と言われ べっぴん塾を始め、ライターさんから 美容番長 と名付けられ、こだまさんからの提案で 美容将軍 と改名。
すっぴん の 美容将軍 は、人のよい父と 話上手な母の愛情と、周りの方々のアドバイスにより べっぴんさん へと成長。
ヨーキー (ヨークシャー・テリア) の ルチア ちゃんと共に、これからも ワンダフル な日々をお過ごしくださいねぇ~♬
「シルクのべっぴん博」
日時:2025年2月14日(金) – 2月16日(日)
営業時間:13:00 – 18:00
会場:Laugh& Peace Art Gallery
入場料:500円(ポストカード付き)
【入場前売りチケット】FANY Online Ticket
▼2/14(金)分
https://ty.funity.jp/ticket/show/page?clientid=yoshimoto&show=511937&sno=2&skb=1&showno=1
▼2/15(土)分
https://ty.funity.jp/ticket/show/page?clientid=yoshimoto&show=511937&sno=2&skb=1&showno=2
▼2/16(日)分
https://ty.funity.jp/ticket/show/page?clientid=yoshimoto&show=511937&sno=2&skb=1&showno=3
【シルクのべっぴん博 ~スペシャルトークショー~】
※会場観覧チケットは全日程完売しました。
▼2/14(金)18:30~配信チケット2,000円 ご購入は FANY Online Ticket まで
<ゲスト:レインボー池田>
▼2/15(土)18:30~配信チケット2,000円 ご購入は FANY Online Ticket まで
<ゲスト:memi>
▼2/16(日)18:30~配信:2,000円 ご購入は FANY Online Ticket まで
<ゲスト:藤井隆>
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おかけんた
1961年3月28日生まれ。1983年に漫才コンビ「おかけんた・ゆうた」を結成。1986年「第17回NHK上方漫才コンテスト」優秀賞、1997年「第32回上方漫才大賞」奨励賞、1999年「第34回上方漫才大賞」大賞など。
並行して、アート分野で活動を開始。1994年 – 1995年「東京国際AU展」作品展示(東京都美術館 )。1995年株式会社スプーン公募展でグランプリを受賞。1996 – 1998年「OCHA(大阪コンポラリーヒューマンアート)」をプロデュース。2014年からは「京都国際映画祭~映画もアートもその他もぜんぶ~」 でアートプランナーを務めた。「ART FAIR TOKYO」アートトーク (2007年~2010年)、「ART OSAKA」イベントMC (2008年~2012年)、「草間彌生 永遠の永遠の永遠」 国立国際美術館 ギャラリートーク (2012年)、ギャラリーA-LABのアドバイザー(2015年~)、京都精華大学客員教授(2018年 – 2020年)、「茨木映像芸術祭」審査員(2021年)、「Any kobe2022」トークイベント (2022年)などを歴任している。